ログイン「わたくしの獲物に、手を出すなんていい度胸じゃありませんの!」
「まだ誰のものでもないでしょうが! あたしは、正当な取引をしようとしているだけよ!」「まあ、正当ですって? 権力を笠に、品物を奪おうとすることが、いつから“正当な取引”になったのかしら? さすがはシューベルト家ね。新しい商習慣でも、お作りになるおつもり?」「なんですってぇっ!? うぎぎぎ……!!」さてさてさて、なぜ、わたくしがこんな淑女にあるまじき言い争いをしてるかと言えば。
王都の大通りから一本、路地へと入った、ひっそりとした佇まい。
蔦絡まる鉄門には、看板も出さず。常連の紹介がなければ、入ることすらできない、王都随一と噂される仕立て屋。――メゾン・ニクシー。
そこに、まさかまさかの先客がいたからよ!
宰相閣下の愛娘、ツェツィーリア・ファン・シューベルト!「ごきげんよう、ツェツィーリア様。あなたも、夜会のドレスを仕立てにいらして? 奇遇ですわね」
「フン。あなたのような無粋な女も、同じ店を使っているかと思うと、虫唾が走るわね」 相変わらずの、棘だらけのご挨拶ね。 でも、今日のわたくしは応戦するつもりは、毛頭ないわ。 なぜなら――トルソーにかけられた一枚布。夕焼け空を織り上げたかのような、鮮烈なる緋色。 東方からようやく届いた、“緋玉の天蚕糸”とも称される『火蚕綿』があるんだからっ! それどころじゃないっ!「待ちなさい! その布は、このあたしが先に目をつけていたものよ!」
「むむっ! でも、わたくし、ニクシー夫人から、入荷のご連絡をいただいておりましたけれど?」「嘘よ! あたしだって、半年前から『火蚕綿』が入ったら、誰より一番に見せるように、頼んであったんだから!」にわかに、火花が散る。
すると奥から、カツ、カツ、と気品あるヒールの音が響いた。「おやめなさいな、お二人とも。ここは、淑女のための夢の城。野蛮な言い争いは、似合いません
「つまり。王立アカデミーで蔓延っていた“火遊び”は、西から飛んできた火種だった、というわけか」 王は、報告書を机に放り投げると、深いため息をついた。怒りより、失望と諦念が濃く滲む。「身勝手な捜査の割には、随分まとまっておるな。バージル」「ご叱責は、いくらでも受けましょう。……私が調査していた資料は、まさに灰と帰しました。ですが、諦めた訳ではなかったのです!」 相対するバージルは、堂々とそう返した。 机の上には、押収物が並ぶ。不気味な装丁の書物、曲がりくねった短剣。乾燥させたハンノキの小枝。「国境付近のエイデンの森、最奥部にある『黒の森』。そこを支配するとされる、ハンノキの王への信仰。……これらは近年、ガリアの貴族たちに流行している、退廃的サロン文化そのものだったのです!」 西の大国、ガリア王国。 芸術と魔術の先進国でありながら、絢爛な文化の裏で、爛れた快楽主義とオカルトが跋扈する国。 質実剛健を旨とするシュタウフェン王国とは、水と油のような存在。だが、その洗練された文化は魅力的に過ぎた。「この“流行”に感染し、ガリアからの物資を、王立アカデミー内に持ち込んでいたのが――」「シューベルト宰相派の、若き令息たちであった、と」「……御意に」 |流行《モード》は、いつの世も、若者の心を惑わす病だ。 特に、宰相派の子息たちは、親の交易関係を通じて、ガリアの文物に触れる機会が多かった。「……世間知らずの彼らが、華やかさに心を奪われ、真っ先に染まったのも、無理からぬことかと」「調査委員会は、学生たちの事情までは、なかなか踏み込めぬ。これは盲点であったな」「これまでの事件も、アカデミー内部からの手引きがあったとすれば、筋が通ります。ただ、シューベルト宰相自身がどこまで関与していたかまでは……」「あ奴め、ガリアとの太いパイプを誇示しておったが&hel
逃げ場のない、馬車の隅。こんな密室に、閉じ込められて。「では、教えて差し上げましょう」 揺らめく焔は、わたくしを捕らえて離さない。 骨ばった、冷たい指先が頬を撫でれば、熱い吐息は唇にかかる。「――きっと、“恋とは、狂気そのもの”なのだと」 視界がイヅルで埋め尽くされて、触れあう瞬間、身体中に電流が走ったみたいだった。 最初は、優しく。まるで壊れ物を扱うかのように、そっと、啄む。 でも、すぐに、それは激しさを増して。「……んッ」 思わず、小さく声が漏れた。 重なった唇が、微かに開く。そこへ滑り込む舌は、わたくしの内側を侵略した。「ぁ……!」 甘い。脳が、痺れるように甘い。 絡み合う、熱と熱。唾液と、吐息の交換。 息ができない。思考が溶けて、頭が真っ白になる。 あまりの激しさに、顔を逸らそうとすると。 大きな手が、後頭部に回されて――さらに深く、強く、押し付けてくる。逃がさないと、言わんばかりに。 もはや、わたくしにできることは、彼の身体を、ぎゅっと握りしめることだけ。シャツ越しに伝わる、彼の筋肉のこわばり、強い脈動。 初めてのキスは、あまりに熱くて、暴力的で。彼に“独り占め”されていると言う、どうしようもないくらいの実感。 ――そう、わたくしは……満たされてしまった。 どれくらいの時間が経ったのか。永遠にも一瞬にも感じられた口づけは、ようやく終わりを迎える。 ちゅ、と名残惜しそうな音を立て、わたくしたちは離れた。銀の糸が、すうっと引いて、切れる。「はぁ、はぁ……っ」 酸素が足りなくて、クラクラする。 イヅルの指先が、わたくしの濡れた唇を、愛おしげになぞった。「これで、おわかりになりましたか?」「……っ!?」
「ねーねー。イヅルは……いつも、わたくしがしてほしいことを、してくれるね」「左様ございますか。それを『気が利く』と、いうのですよ」「そっか。……わたくし、昨日、誕生日だったのよ。ほら、見てよ。プレゼントが、い~っぱい!」「そうですね、たくさんです」「……イヅルは誕生日ないの? 寂しくない?」 子供の気まぐれだ。誕生日祝い……そんなもの、貴族以外にあるはずがない。 ただ、生まれただけで、生物が肯定されることなどありえないのだ。 ましてや、生存した年月を数えることに、何の意味があるのすらかも、よくわからない。「私めに、誕生日などないのですよ。イヅルと、お嬢様は違うのです」「……違わないもん」「はい?」「ねえ、イヅル。あなたは、欲しいものはないの? 欲しいものがあるなら、今、言いなさい。わかった?」 つまらない気まぐれ、哀れみだ。 ならば、望めば、この国を阿鼻叫喚の地獄にでも、変えてくれると言うのだろうか? 伝え聞いた、かつての故郷のように。 だが、はて? 言われてみれば、考えたことがない問いだった。“我”が、なにかを欲しいと思ったことが、そもそもあっただろうか、と。「ありませんね、ビーチェお嬢様。なにひとつ、思いつかないのでございます」 いずれにしても、この娘になにが出来よう? 断れば、シュンとして。薔薇色の髪をくるくると指で、巻き取るように思索にふけるベアトリーチェ。 いったい何を思ったか、次に放たれた言葉こそが、“|我《ぼく》”を――この世界を変えていく。「なら、こうしましょうか、イヅル。欲しいものが見つかったら、“それまでの分。今までの分、まとめて全部上げる”わ」 力強い約束。|僕《われ》の人生に与えられた、ただ一つの目的。「だから、ながく長く&helli
思えば、僕にとっての世界は、いつだって色褪せた盤上だった。 人の喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も。すべてはありふれたもので、予測可能な振る舞いだった。 イヅル・キクチ。僕が僕であると、認識したその時から。 すべてを遠い国の、史書を読むように理解していた。 同時に、人の心という臓器から溢れ出す、温かい情動の血が、自分には決定的に欠落していることを。「……ひどく、乾いている」 喉が、血が、皮膚が、髪が、目が。外も内も、僕という存在そのものが、砂漠のように。 古老たちの語る、故郷の話はいつだって血生臭かった。 極東の島国、長きに渡る戦乱の時代。 我らが祖は、隠密傭兵集団『鴉天狗衆』における菊池一党として、闇を喰らい、血を啜り、歴史の裏で暗躍したという。 否、その真の名は、敵の首で弄び、骨で笛を吹いたという、凶悪な殺人集団――|鬼口《キクチ》。 いくつ首級を上げたのか、いくつ城を更地にし、田園田畑、小川を血に染めたのだろう。 だが、遠い御伽噺になってしまった。「“我”も、その時代に生まれればよかったのだ」 生まれるのが、遅すぎたのだ。どうせなら同胞らと、阿鼻叫喚の地獄を歩いてみたかった。 さすれば、この焼けつくような渇きも、業火で多少は紛れただろうか。 戦乱の終息は、我らから牙と生きる場を奪った。大陸へと渡り、海を越え、流浪する旅路の果て。 我らは、ひとつの根城を見出した。 ――この、シャーデフロイ家に仕えることで。 なぜ、とは思うまい。 他者の不幸と、密やかな裏切りを礎に築かれた、壮麗なる骸の館。 紋章に刻まれた『翼ある毒蛇』と、悲劇に寄り添う『リンドウ』の花。 曰く、「誰かの悲劇に寄り添い、我らは正義を成す」と。 一見、崇高なようでいて、結局は他者の不幸を啜って咲く、歪な徒花。 その在り方は、『鴉天狗衆』たる鬼口の業と、奇妙なほどによく馴染んだろう。「でも、その
「例えば、バージル殿下に理解を求めていらっしゃいますか? よく言うではありませんか、“腹が立つのは、相手に期待しているから”だ、と」 わたくしが、バージル殿下に期待?「知った風なことを言うのね。あのね、それはさすがに単純化し過ぎよ。人間なんて躓いたら、小石だって憎くなるのに」 腹が立つにも、色々あるわよ。そんなの。「なれば、バージル殿下には、ご理解を求めてはいらっしゃらない?」「もはや、ね。前は、違ったけど」 バージル殿下には、以前から苦手意識があった。 それでも、わたくしだって、シャーデフロイ家の娘。不安、不満があったとしても、精一杯、愛情や尊敬を以て、殿方を支えていこうと思った。「そうね、わたくしは“嘘だとしても”、仲睦まじくするべきだと思っていたのよ。きっと、だからこそ、そんな気持ちすら、踏みにじられるなんて、思ってもみなかったのね」 でも、実際は、わたくしは我慢したのに、相手は警戒を取り繕いもしなかった。「もし、バージル殿下さえ、最初からほんの少しでも優しかったら。こんな面倒な回り道する必要はなかったわね。でも――」 『あの時、そうしてくれたら、良かったのに』は思うけど。 『今から、そうして欲しい』とは思わない。 きっと、バージル殿下に感謝すべき点があるとしたら、わたくしを婚約者として歓迎しなかったことだわ。「……ビーチェお嬢様は、王妃の地位を望まれていたのでは? 幼少期、最も偉い女になってみたい。と、仰っていたではありませんか」「そりゃ、小さい頃は言ったわね。国母なんて栄誉じゃないの。だからそうね、今でも悪い気はしないわ」 わたくしほど、才色兼備の令嬢なんてそうはいないもの。別に、手を抜いて生きてきたわけじゃないし。「でも、わたくし。今は、嫌よ。出来れば、シャーデフロイ家を継ぎたいし、無理でも……殿下と、結婚はしたくない」「それほどまでに、バージル殿下が、お嫌いで?」「そりゃ、
「ベアトリーチェが己を囮に、この事件を解決しようとしていたのは、もうわかっているのだ。貴様が卑怯な手で、彼女を呼び出し、罠に掛けたこともな!」「なっ!? 覚えが! 私は覚えが全然ないっ!」「しらを切るか。貴様が外国勢力に、怪しい根回ししていた証拠も挙がっているのだぞっ!」「それとこれとはっ!? 今、この状況と全然関係ないやつじゃないかっ!」 あれ、バージル殿下が「宰相派が、わたくしを罠に嵌めた」と、斜め上の深読みをしている??? ん……改めて、ジッと見る。ローラント殿やルチアがいるなかで、ヒュプシュ卿を。「あーーーーっ!!」 思わず、大声上げちゃった。全員が一斉に、わたくしに注目。でも、それくらいビックリしたのですもの。「いえ。あのー……ヒュプシュ卿って、この間、王立アカデミーにいましたわよね?」 みんなポカンとしたけれど、ヒュプシュ卿だけ青ざめる。「髪や瞳の色も、変えてらっしゃいましたけれど。男子学生たちと、一緒にどこかへと、向かわれておりましたわね」 そう、わたくしが、都合のいい殿方なんて、落ちてはいないのかしら。なんて、周囲を見渡した時。 どこかへ向かう学生の一団に混じって、見覚えのあるイケメンが目についたのよ。「どこで見たのか、今までわからなかったのですけれど――アレこそが、魔法薬で外見を変えた、ヒュプシュ卿だったのですわっ!」 いやー、スッキリした。なんだか、喉につっかえていた骨が取れたみたい。 ローラント殿が、近寄って来てそっと尋ねて来る。「ベアトリーチェ様、それはいつ頃のことですか?」「えっと。ほら、ローラント殿が、わたくしを尋ねて来た時。エスコート役の、お願いした日のことですわ。……断られちゃったけど」「あの日は――ハッ!? ちょうど、魔王崇拝者たちの集会があった日では?」「なんだと? ローラント、今すぐこの男を引っ立ていっ!」「ははっ、直ちに!」 魔王崇拝? &hell